JET指令アーカイブ第1回/悲鳴2020

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 「その先には行きたくないな」
悠平がそう言ってスケートボードのスピードを殺し、まばらになった外灯の暗い位置で立ち止まったので、かなりの距離を置いて止まった俊哉からは、彼の表情がわからなかった。
「信じてんのか?」
そう叫ぶ俊哉の言葉に悠平は答えない。
「怖いのか?」
煽るようにそう続けても、彼は黙ったままだ。
 
 最近出回るようになったドラッグはやたらに喉が渇く。だから皆ガムを噛み締めながら自らの唾液で喉を潤すのだ。不本意に鍛えられた表情筋が昨今の若者のドラッグ常習者の見極め方だ、とテレビである有識者が警鐘を鳴らしたが、親たちですらそんな見極めは無意味だと無反応だった。
 「こんな、ある日突然ひっくり返ってしまったような、この世界で、父さんはお前にどうなれとか、こう生きろなんて、とても言えないよ」
酔って帰宅した父親にそう告げられた或る時、じゃあ世界がひっくり返えらなければ、どうなれとか、こう生きろと言うつもりだったのかと思い、俊哉は呆れた。
 呆れたまま居間に父を残して部屋に戻り、ベッドに入って電気を消してから初めて、感じたことのない強い怒りが頭を一瞬で熱くした。
酔い潰れて寝ている父親を殴り殺してやりたいと思った。その衝動を抑えつけるのがやっとだった。
外が薄っすら明るくなった頃、滅茶苦茶になった気持ちや心に疲れ果て、不意に暴力的な眠りがやってきて、落ちた。
目が覚めたとき、自分の中の何かが決定的に変わってしまったことに俊哉は気付いた。階下から聞こえる両親や妹の声に訳も判らず涙が出て止まらなかった。

 俊哉はガムを手に吐き捨て、悠平の方に向かって投げた。
「おれ、帰るよ」
その言葉には俊哉は返事をしなかった。
「お前、男じゃねぇよ」
「おい、そういう言い方をするなよ。街で録音されている会話集積からセクシュアリティ法に引っ掛かって通知がきちまうぞ」
「そんなんどうでもいいよ!テメェはいつもそうだよ、カッコつけるばっかでカッコわるいんだよ。
自分の気弱さに巧く理由つけてじゃねぇよ!ダセェなぁ!ダセェんだよ、お前は」
 俊哉も怖かった。毎日、週刊誌や報道で明らかになってゆく詳細。未確認だがその数は少なく見積っても数万に達しているだろうと言われていた。
異常なスピードで変化し、変態を繰り返しているらしく、異形な変異が起こっているという。
最近公開された写真は、もうどこがどうなっていて何がどの部分なのかわからなかった。
国が莫大な費用を投じて囲った内側の行方、それは誰にも予測出来なかった。
 「悠平、ごめん、言い過ぎた。俺も怖いんだ」
どうして俊哉は素直に、そう言えなかっただろう。
特殊なラバーを用いて作られた巨大な囲いが風を受け流しながら大きな音を立てていた。
あと少し行けば、彼らのいる内側だった。
ドラッグを切らした。汗が吹き出てきた。俊哉は、はためくラバーの音に怯えた。
 彼は踵を返して来た道を戻る為、スケートボードを大きなモーションで漕ぎ出した。
地面を5回蹴った時、急停止した。今日、悠平が着ていたジャケットは俊哉があげたものだった。
それがガードレールに掛けられていた。

 そんな世界になってしまっていたら、俊哉も悠平に謝りやすかったかも知れない。 
 各国で非常事態宣言が出されたとテレビで伝えられていた。俊哉はそんなことよりも悠平と仲違いした事を思い出す度に気が滅入り、事実それどころではなかった。
 テーブルを拭く母親から歌うような声で俊哉の携帯電話が鳴っていることを告げられた。
彼は気怠そうな素振りを見せながら、着信の相手を、願った。 



 

春になれば

 表参道のブランドショップに併設されたカフェの開店前、フランスから招いた有名な接客アドバイザーがマインドセットの再構築と身体性についてジェスチャーを混じえて論じてゆく。
 彼の説明はフランス語と英語がランダムに入れ代わり、レクチャーを受けている日本人たちにはかなりの難解だろう。だが、もし言葉を超えた場所に真の知性と気づきがあるならば、それこそがアドバイザーの真意だろう。聞いてるものは頭で理解することを手放した瞬間に感受する器となり、川となり、彼は自分になり、自分は彼になる。
 透明だ、どこまでも。痺れている手先が他人ごとみたいだ。視線。流れてゆく朝の人々の足並み。
一体、誰に騙されて、誰を騙そうとしてきたのか。
枠組みに普遍性を見出して、勝手に苦しくなっているのは自分だ。最初から枠はない。ルールの外側から改めてルールを俯瞰すること。だからって、ルールをないがしろには出来ない。愛しているんだ。人間が好きだ。酷いことは、いつも少ない方がいい。
自分だけが幸せでも、それはよそよそしくて味気の無いものだろう。鳥が鋭く頭上を飛ぶ。風の恩恵。
笑い声と喧騒の中、できるだけスマートにメニューを低く差し出し、穏やかで知的な笑みを称えて、こう切り出す。その時の声の出し方、高さ、抑揚。
 「ゴミ出し、オーケーですよ、南田さん」
 大きなドアガラスに映るパートの須永さんにそう声を掛けられて、はい、と南田は返事をした。
掃除機の電源を落とし、邪魔にならないように脇に移動させる。
 ガラス扉の向こうのカフェでは、まだレクチャーは続いている。だが最初から声も内容も聞き取ることは出来ない。カフェの従業員を前にして話している男の口の動きとジェスチャーに熱が帯びているのが判る。ブランドショップの早朝清掃を始めてから週に1回、清掃しながらその光景を彼は眺めた。

《知性は扉の向こう側だ、こちらには、ない》
 
 ブランドショップから出る大量のゴミは東京の虚しさを知るには充分な不毛さで、思っていたよりも出会いもなく、牛丼屋の食事がメインで、いつも疲れていて、自分の成長や能力にも失望していた彼は最後のゴミ袋を地下のゴミ置き場に投げるように捨てるとエレベーターに乗り、そのまま屋上へ上がった。庭園のごとく整備された休憩所を抜け、片隅に押しやられた円筒状の灰皿の前で煙草に火をつけた。灰皿には3月末までに廃棄!と殴り書きされた紙が風化し、破られたいにしえの書物の1ページみたいに変色していた。
 今日も花粉が多そうだが、薬で感覚はぼんやりしている。風はまだ冷たくて、哀しい映画を観たあとの、あの気持ちが、いつの頃からか、ずっと胸の奥で燻っていることを何度も確かめる。
 ここは屋上で、自分の足の下では皆、頭と身体を動かしながら働いているだろうと彼は思った。
職場から戦線離脱した彼のスマホが鳴っている。
「列を乱すな!流れを崩すな!奴隷は奴隷らしくあれ!命が尽きるまで貢献せよ!尽力せよ!」
南田は笑いながらそう呟いて、煙を吐き出し自分の不甲斐なさに気持ち良くなって街を眺めた。
 ビルは暴力的だった。下品な建物とそうじゃない建物。弱い自分への戒めと非難。それでも陽射しは毎日少しずつ、暖かみを増していた。しかし3月上旬でも、この風の冷たさは滅入る。
 春になれば…。
そう無意識に口にした言葉に、彼は自分で立ち止まった。思考が足元を突き抜けて、底をつき、再び舞い上がるような一瞬の高揚を感じた。
 講義を終えたのであろう男がカフェから出てきて歩いてゆくのが屋上から見えた。灰皿のある場所の真下、そこはあの男がさっきまで仕事をしていたカフェのある位置だ。
 そうか扉なんか最初からないんだ、と彼は思った。